
最近思うこと
63歳
あれれ?いつの間にか!でも63歳のこの日に偶然、過去に保存してあったTV番組のpdfをみつけた。それは私が20代後半から30代まで毎週通っていた藤村先生のセミナーを思い出した。これは私の人生の偶然だったのか、そのセミナーにはアメリカ軍として戦ったハワイ出身の日系人の方もおられました。モラロジーの勉強と共に戦争が勝利国、敗戦国にかかわらず如何にに多くの人々に悲惨な結果をもたらしたか、先生の実体験をもとにした言葉は今も心に残っています。奇しくも今日は日本では衆院選がありました。この国が再び戦争を繰り返すようなことにならないか本当に危惧する結果となりました。今こそ藤村先生の経験を教訓にするべきがきていると感じました。



61歳
モラロジーという学問を推奨したところで、結局それを理解し読み解く人が正しくこの学問を理解できずに伝えていくのであれば、宗教と全く同じになってしまう。世の中で起こっている争いは本来の宗教が正しく伝承されずに伝える人間たちが自分に都合のいい解釈をし利用するために信心することが原因だと私は思う。以前にも述べたように宗教は否定しない。どの宗教も神に感謝し、先祖に感謝するために必要だと思う。でも宗教を正しく理解し日々の心遣いや行動に活かしている人は極わずかだと思う。モラロジーも同じだ。こんなに素晴らしい心の指針を説いた学問も「日本会議」などのような団体の思想にとりこまれてしまっては全く意味がない。それどころか間違った解釈が伝わっていき、かえって人々を不幸へと導いてしまう。本来人々の幸福を祈る教えが人々を不幸にしてしまうことになるのであれば、残念ながらモラロジーという学問を推奨しないほうがいいかもしれない。
これから先どうやって若い人たちに正しく伝えていけばいいのか自分に問う日々である。
もう61歳、いつのまにか年だけ重ね世の中への貢献は何もできていない。
もっと早く若いうちに何かできなかったのかなあ。
日本がどんどんおかしくなってる。憲法の解釈さえも力をもった政権が制約を受けることもなく変更。恥ずかしながら青木理さんの『日本会議の正体』という本を読むまで詳しく日本会議という右派組織の大きさに気づかなかった。本来の日本の素晴らしい伝統を踏みにじるまさにとてつもなく大きな宗教団体だと若い人に説明した方がわかりやすいと思う。宗教は本来先祖を敬い、感謝し、慈悲の心で世界の平和のために、与えられた自分の人生を尊く生きるためにあるものだと思うが、正しい解釈のもと信仰し救われる人がいる一方、やはり利己的な解釈で自分の都合のいい解釈に変え利用する人がいるから争いが起きてしまう。
日本会議には新天皇即位を利用して、戦前復古的なイデオロギーを広げようという目的があるそうだ。
=== 戦前・戦中の天皇は、大日本帝国憲法において国家元首かつ統治権の総攬者であっただけでなく、「現人神」として神格化され、国家神道という宗教的支配システムに組み込まれた。「神州不滅」「万邦無比」のスローガンにあらわれるように、明治以来の日本の政治支配層は「日本は世界に並ぶもののない、天皇を中心とした永遠の神の国」という幻想を、国民や植民地支配した地域の人々に叩き込んだのである。===
この歴史的事実を多くの国民が自覚しないまま、この国は、安倍政権によって、少しずつ戦中時代のムードに引き戻されているそうだ。ネトウヨと呼ばれる人たちはこの思想を本気で信じ、過激な思想で他を罵倒し、どんな恐ろしい手段を使っても攻撃しまくる。本来世界の平和、国民の安心安全を願っている天皇が利用され、天皇崇拝ではなく、まさに日本会議の下に天皇がいるのと同じだと思う。
水木しげるさんは 「浅草落語 天皇陛下バンザイ」の結びで述べられてるそう。
〈ほんとうに国を守ろうとすると、それこそ“国が亡びるほど”の金がかかるから、世界中が仲よくするとか、世界中で核軍縮するとか、要するに“戦争のタネ”みたいなものをなるべく世界中におこさせなくするのも国防ということになり、とにかく前代未聞の複雑さだ。しかし、悪いこと(すなわち核戦争)がおきないとは誰もいいきれないことだから、このあたりで誰もが真面目に考えなればいけないことだと思う。〉
亡くなられた後もこの状態はずっと続いてる。まさに今私たち国民、ううん、この地球に暮らす人間全てが胆に命じなければならない言葉だと思う。
〜このホームページを作るに至った思い〜
還暦を目の前にして、ふと思ったこと、
それは
あれ?この世に生を受け、
いつのまにか半世紀以上も経ってる。
振り返るとなんて平和な人生を送ってこれたんだろう。
なのに何も恩返しのための行動はおこせていない。
このままじゃ、人としての役を果たすことなく
人生を終わっちゃう。
「恩返しは何もできていない。」
人として生まれた使命は
自分の子供、他人の子供に関わらず
次世代の幸せのために次世代を育み育てることだと聞いています。
私は自分の思っていることを言葉で表現するのが得意ではありません、
昔から何か反論したくてもいざ、ちゃんと論理立てた言葉で返すことが
不得意で、どうするかというとたいてい、「ちがう、ちがう、違うんだよ!」と
ただ声を荒げてわけのわからない言葉で感情だけを表にだす、ちょっと情けない性格です。
だから自分の、他を愛し他の幸福を願うという思いを絵であらわすくらいしかできないと思い、
残りの人生をその思いを伝えるために絵を描くことに捧げようと思います。
〜注:日本会議とは関係ありません、そして支持しません〜
モラロジーのすすめ
絵に込めた思いが伝わるかさえ自信がないのに、
さらにつたない文章でお伝えすることは難しいと思いつつ
大切なことなので少しだけ綴ろうと思います。
モラロジーを学び、自分の人生に生かそう。
私の人生を幸せに導いてくれたモラロジー
モラロジーは宗教ではありません。
モラロジーとは
最高道徳を実践された様々な聖人の教え、
自然の法則を解いた
モラルサイエンスという学問です。
どうすれば真のしあわせに近づけるか
原理に基づいて学ぶことができます、でも、
学べば幸せになれるというものではありません。
信じれば幸せになれるというものでもありません。
「思い」「心遣い」という目に見えないものにも
エネルギーが存在するという心の化学式を解き明かしたような学問と
考えればわかりやすいかな。
ただ知能が高いとか高学歴だから理解が容易という
わけではないんです。
学べば誰にでも理解できるものでもないところがもどかしい上に、
実践はさらに難しいということです。
気づけたのが自分というよりは、
ご先祖様からの余得のお陰かもしれません。
正しい心遣いを積み重ねていけば
真の幸せに近づくことができる
人々の幸せを祈り助けるなんてさらっと言ってみたものの
心から他の幸せを祈るというのはとても難しいです。
心のジャッジはまさに神様にしかくだせません。
若い方たちに捧ぐ
自分が若い時にこの学問に出会えたことの尊さを感じているからこそ
若い方々に是非紹介したいと思いました。
モラロジーという言葉に出会えたら
少しだけモラロジーを学ぶことに時間を費やしてみてください。
なぜならそれは日々の積み重ね、
心のつかいかたで運命が変わるからです。
必ず幸せに近づける。運命も変えられる。
でも今から20年後、30年後に学んでもそれほど大きな意味を持たないかもしれません。
だから若者たちにこそモラロジーを学習し、
自分自身のこれからの人生に生かしてほしいです。
正しい原理さえしっかり学んで理解しておけば
その後お仕事や子育てで講習会などに参加できなくても
日々の心遣い、行いを自己反省し徳を高めて行くことができるのです。
このMessageがたとえたった一人でもいい、誰かに気づかれその人の未来が、人生が
本当の幸せに通じることを心から願っています。
生かされている
人は「生きている」のではなくて「生かされている」
会社の先輩に紹介されて初めて参加したモラロジーの講習会で
いきなり聞かされた言葉でした。当時若かった私は
えっ?
何を言われているのかよくわかりませんでした。
すると、
「今この瞬間もあなたは自分の意思で心臓に動けって命令してるわけじゃないでしょ、
もしそうなら床に就いて眠ってしまえば心臓は止まってしまうでしょう。」
何て理解不能な変なことを言っているんだろうと思いました。
でもモラロジーを学ぶに連れ自分の頭のなかで
カシーン!カシーン!と経路が繋がって
色々なことが理解できていきました。
モラロジーとは
世の中の安心、平和のために人類を導いてくれた諸聖人の教え、
実は根幹となる精神が共通一貫している部分があることを
広池千九郎博士は発見しました。
「普通道徳」と「最高道徳」という二種類の倫理道徳を科学的に分析し
実践によって本人だけではなくその相手も、そして第三者にも
幸せをもたらす「最高道徳」の原理を広池博士が学問として確立させたものです。
人類誕生以来、聖人と崇拝される方々の教えは個々に違っているようで実は
慈悲、仁、愛、というあらゆるものを公平に慈しむ心を育てるという
共通の教えがあるのです。
そこの重なった、万物を生成化育する慈しみの精神の教えを
確立させたのがモラロジー。
最高道徳を実行された諸聖人の教えですが、宗教などの
教本を作ったりそれを伝え広めたのは大抵は聖人自身ではなく
聖人の行いを尊敬する人々で
全てが正しく人から人に伝わったかといえば、
残念なことにそうでない部分もあります。
だから私は宗教は
単に自分を幸せの境地に連れて行ってくださいと懇願したりするものではなく
あくまでご先祖様に感謝しつながる手段として参加します。
このモラロジーでさえ、伝えて行くのはやはり同じで、
この学問に携わる人たちにでさえも正しく理解されるのは困難を極めます。
神様は目には見えない、大きな、万物を生成化育する、
宇宙に流れる大波のようなパワーをイメージすれば
わかりやすいのでは。唯一の法則があってぐるぐると流れています。
あらゆるものを育み育て、この世に生を受けた人間にも共通に注がれるもの。
この地球、空気もみんな同じ平等の恵みを受け存在していると思います。
私の、あなたの、お父さん、お母さん、そのまたお父さんの両親、お母さんの両親、そのまた両親
辿っていくとどれだけの人々に受け継がれて来た結果自分があるのかな。
ずっとずっと銀河の数たどっていくと生物誕生にたどり着き、
それ以前は地球ができる前、宇宙、目には見えない力、自然の摂理、
はかり知れない大きなものに包まれここに生かされていることに気づきます。
そのどこかのひとつでもなかったら今の自分はこの世に存在しない考えると、
まさに繋がり、生かされたことへ感謝するのは当たり前だと感じます。
実践は難しいけど
聖人の教え、最高道徳を実行することが真の幸せにつながるということを証明するのは不可能なくらい難しい。
なぜなら心は目に見えないから。
親孝行やボランティアやお仕事をするなかで、側からみると全く同じ行為をしていても
そこに真に相手や周りの幸福を願って行動をするかしないかでは結果が違うことを証明しなければなりません。
だから間違った解釈をする人もいっぱいいます。
そういう私も間違った解釈をしているかもしれません。
でもひとつ言えることは、なぜか若い頃に身についた
この全てに感謝し、教えの根本の慈悲寛大自己反省の精神に
近づこうという思いはそれ以来捨てずに
今日までこれたことに感謝している自分がいます。
この学問を知らずともとっくにこの法則に基づいて
最高道徳に近い心遣いをされている人もいらっしゃいます。
ところがどんなに頭脳明晰な学者のような優秀な方でさえ
この学問でいう法則が理解できるかといえばそうではないようです。
何度も繰り返しますがモラロジーは本当に奥が深い学問です。
正しくこの学問を習得し、実践していくのはもっと難しいです。
だから宗教のように教えを大きく広めていくような布教活動をしてもモラロジーは伝わりません。
伝わるとすれば徳を積んだ個人から個人への感化です。
自分で全て理解できているとも思いませんが、
モラロジーにはその実践についてかかれた本や
心遣いの指針といったわかりやすい本がたくさんあります。
私自身も子育てをするにあたって
川合月海先生の『8秒間のスキンシップ』や
小さい頃から他を気遣う心が大切だと教えることを
念頭にどうにか実践したお陰でしょうか?
成人した二人の子供たちは周りの人々に優しく思いやりのある、
私の願っていた優しい人間に成長してくれたのではと感謝しています。
モラロジーを学べたこと、少し努力をしたことで、
もしかすると実際に活かせたのかもしれません。
モラロジーの講座や研究会は各地域で今も行われていると思います。
私も若いころあちこちの講座に参加し色々なことを教えていただきました。
先ずは正しく理解しないとはじまりません。
難しいけど、実は学び始めると本当に面白いです。
色々な法則をあてはめていくと
なぜそうなっていうるのかという自分の置かれた状況の
原因と結果が分析でき、
まるで謎が解けたような気持ちにさえなります。
~最初は真似ごとから~
そう、いきなり心を入れるなんて若い私にできたはずありません。
最初はうわべだけでもいい、先ずは形を作りその中に少しずつ心を込めていけば
いいと教わりました。未だにその形に心を入れるのは難しいと思っています。
「人の幸せを心から祈りなさい」、
自分の家族やご先祖様だけならともかく、
日々世の中全ての人の幸せを心から祈るだなんて今の自分と直結して考えにくいし、
「たとえばあなたがコンビニの店員さんで、買い物を済ませお店を出て行くお客さんの
後ろ姿にありがとうございましたと声かけながらその人の幸せも祈るのです。」
「たとえ自分の嫌いだと思うような人にさえ、思いやりの心、幸せを祈る気持ちを」
と言われても若かった私にはすぐにそれを実行できる器量など持ち合わせていません。
でもそこから私の人生におけるモラロジーの実践編が始まったと思っています。
最初は「ありがとう」と声をかけたり、
目を閉じて祈る行為を真似事でも行っていくうちに、
そこに少し心を込めるという次の段階が生まれて来ます。
毎日、ご先祖様に手を合わせ、受け継がれた魂に守られ生かされていることに感謝し、
全ての人々が安心し、平和に暮らせますようにと祈りました。
もしかすると未だに形だけの時もあるかもしれません。
余談ですが、
今の私たち日本人の身近にも
お手本となる存在がありますよね。
まさに天皇陛下、皇后陛下、
お二人の人々の幸せを祈るお姿を拝見しているだけで
ありがたくて涙が出てきます。
言葉ではあらわせない神々しさを感じます。
まさに心が洗われます。
人生の後半に来て今更ですが、もっと純粋な気持ちで、人々の幸せを祈りながら
余生を大切におくらねば、と自分に言い聞かせています。
今からいただきます、とお膳に手を合わせるだけなら
いつもしてることだと思っていたら、
単に食卓に並んだお膳を前にここに行き着くまでの過程も
考えましょうと言われ驚きました。
野菜ひとつとっても、種が準備され、蒔き、育て、実りを収穫し、運ぶ、それらに携わった全ての人に、
そして何より自然の恵みなしではこのお皿の上におかずはありません。
それら全てに感謝するんだよ、って言われた時には気が遠くなるような感じがしました。
でも講師の方が更に伝えたかったのは
人間は家族、地域、社会、そして国という社会の中に助けられ、守られ生かされている。
さらにはもっと大きな見えない万物を生成化育するに神さまに支えられ、恩恵を受けて生かされている。
そのことへの感謝ということでした。
最初は戸惑いました。すぐに理解し、いきなり実践にうつすことを考えたからかもしれません。
勿論正しい理解とともに、肝心なのは実践、正しい心遣いができるかどうかですが、
それを一度に行うことを考えたらそれは戸惑うに決まっていますよね。
~心遣いの積み重ね~
モラロジーはまさに本当の幸せに導いてくれる宝の学問ですが、
ご先祖からの余徳がないとそのお宝に気付くことはないでしょう。
気づかせてくれたご先祖様に本当に感謝しています。
心は目に見えないけど、
空気より軽いものだけど、
確実に存在します。
誰もが先祖の余得を持って今を生かされている。
人によっては負のものを受け継いでいる場合もあれば正の余得を持って
生まれてくる人もいてその上に生かされているけど、生まれてきてからの徳は
自分次第だと教えられました。
負で生まれても最高道徳に近づく正しい心遣いを積み重ねていけばいずれはゼロになり
それがやがて正へと変わる。ふわふわのティッシュを肩に一枚載せても全然重さを感じないし痛くもなんともないけど、それを高く高く載せて重ねていくとやがて何トンもの重さになり潰されてしまいます。存在が目に見えないほどの軽いものでも確実に正しい心遣いの積み重ねは正になりうると教わりました。
ふわふわと自由に軽く飛び回れるほど今肩にのっている負のものを剥がして、徳を重ねていけば
ふと気づくと神様からのご褒美、幸せがいっぱい訪れる。
他人が不幸でも構わない、奪い取ってでも手に入れたものは自分が所有して当たり前、
これはもちろん不道徳。
目に見えるいただいたものに感謝し、他人の不幸は望まない、
他人に迷惑をかけないように生きて行く、普通の道徳。
この不道徳、普通道徳の心では今の重さが軽くなることは
絶対にありません。
また繰り返してしまいますが、
先ずはこの最高道徳を正しく理解するための勉強をして、
日々の生活の中で実践に移していくことこそが
本当の幸せにつながります。
その実践法は最初は真似事、形だけでも
少しずつ心を入れていくそしてその積み重ねこそが大切です。
前述の通り、私はあまりおしゃべりが得意ではありません。
ましてや理路整然と人に物事を伝えることは
私にとっては相当難しいことです。
それでもペンをとって伝えなければならないと思ったのは
私のようなお馬鹿さんでもこの法則をほんの少し理解し
聖人の教えに近づこうとそちらの方向を見つめながら生きてきたことで
私の人生は幸せだったと思えるからです。
もしモラロジーに出会わなかったらこんなに幸せではなかったと思います。
なによりこの学問に出会えたのが若い時だったことはやはりラッキーでした。
以来数年間たくさん勉強会に参加し
いっぱい学ばせてもらいました。
ところがその後はこの学問に関する知識を増やしていません。
ひたすら子育てに専念して今日に至りました。
だから独りよがりの解釈になっているかもしれません。
だけど、
目には見えない実証しづらい、
この教えの素晴らしさを実感しています。
まるで見えないものが見えてきたほど
確実に感じています。
だからこそ、若い皆様にこのモラロジーを知っていただきたいです。
ちなみに、私は「日本会議」は一切支持しません。
本来の最高道徳を間違って解釈しています。
モラロジーに携わる人たち皆がモラロジーを理解できているとは限りません。